イメージの遊離

Posted in Exhibitions, Group Exhibition

10866048_770930426330842_8674904104575246728_o

2015年1月5日(月)〜1月8日(木)
18:00~23:00
出品作家:末永 史尚、原田 晋、(非公開で) ほか1名
キュレーション:小口奈緒実
会場:namGallery 
東京都世田谷区大原1-56-6 2F
http://namgallery.com/access/
京王線「笹塚」駅徒歩7分/「代田橋」駅徒歩5分
京王井の頭線「新代田」駅徒歩10分
京王井の頭線/小田急線「下北沢」駅から徒歩15分
“多くの人は方向性を持ち、奥行きのある空間を生きている。

ところが、自閉症児の空間は、奥行きを持たない、あるいは裏側というものを持たない場合がある。
たとえば、彼らの描画は平面的なものであることが多い。(…)人間の空間は必ずしも三次元ではないのだ。”
“定型発達においては(…)「あそこ」の位置に立ったらどのように知覚空間が構成されるのか、あらかじめ自ずと了解されているのである。(…)つまり空想において体が作動する可能性を持っていれば、それでいつのまにか奥行きを構成できるのである。”

(村上靖彦著『自閉症の現象学』勁草書房 77頁、85,86頁)

−空想(イメージ世界)からイメージを超える現実へ−

「イメージを他者と共有するために視覚体験可能なものへ定着すること」について考えてみたい。視覚表現であるグラフィックデザインやペインティングを行なうとき、かれらは自らがイメージしたものを他者と共有可能なものへ変換する。

愛犬を絵描くとき、色や形に加えて感覚的な「印象」が入ることで、より愛犬らしく描くことができる。イメージは視覚情報以上に経験や記憶によってつくられる。そのような単純ではない私たちのイメージを把握する、あるいは視覚表現として現すためにはどのようにふるまえばいいのだろうか?

たとえば写真/映像と、絵画を比べて考えてみる。写真や映像は現世界に「存在するもの」を切りとることで偶然的要素を迎え入れている。「存在」そのものが偶然性をもつため作者は比較的作品から解放される。一方で絵画の場合、画家の手によって色とかたちで「存在」をうみだすので、作品のなかで作家は強度のある「主体的存在」となる。

それゆえ描くことはより高度な身体性を伴う。えがくまえにイメージを頭のなかで構成し、描かれるものと一致するか検証を繰り返す。イメージと違うことに気づいたとき、自分自身が納得できるまで続けなければならない。それが絵画の条件になる。

イメージの定着は、身体性を伴うとてもアクロバティックなものだと思う。彼らはどのような身体能力を使い、視覚表現として作品を生み出しているのか。この問いのヒントを模索する。

●末永史尚さんのタングラムペインティング作品はキャンバスが分割され、展示空間に合わせて自由に組み換えることが許された絵画である。組み外し、イメージがずれたタングラムペインティングは、ひとりひとりの想像力によって分割前の絵をイメージすることが可能である。私たちはイメージを再構成する力で認識のずれを補い、不完全なものへアプローチでき得ることを示唆するかのような作品である。

●原田晋さんは、テレビモニターから断続的に与えられる世界のイメージをカメラに収め直し、再びテレビモニターに映し出すインスタレーション作品をつくっている。私たちの持つイメージはどこからくるのか解体する試みである。 また作家である傍らデザイナーとしても活躍している原田さんのデザインも併せてみていきたい。

小口奈緒実