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	<title>A CRITICAL JOURNAL ON CONTEMPORARY ART &#8211; Susumu Harada Works</title>
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		<title>Da+: ISSUE #007 Donkey and Artistic Production</title>
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		<pubDate>Fri, 25 Apr 2025 03:50:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[A CRITICAL JOURNAL ON CONTEMPORARY ART]]></category>
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					<description><![CDATA[＃007 Da+ ロバと芸術生産｜Donkey and Artistic Production 生まれたときからひとりかも知れない 死ぬときもたったひとりかも知れない 大江健三郎は「イーヨー」という名を、 揶揄とはかけ離れた、愛称としてそう呼んだ 大江はイーヨーとの生活を通して、生と死、喜びや悲しみ、 そして自由についてあらためて考えていく 溺れそうなイーヨーに 「イーヨー、どうしたのかい？ まだ苦しいの？」と問いかける 「僕は沈みました。これからは泳ぐことにしよう！ 僕はもう泳ごうと思います！」 イーヨーは答える 水の中では沈むこともできる。そう言われている気がした We may be alone when we are born. We may be alone when we die. Kenzaburo Oe chose the name “Eeyore” as a term of endearment, not of mockery. Through his life with Eeyore, Oe reconsiders [&#8230;]]]></description>
		
		
		
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		<title>Ta+: ISSUE #006 Travel and Artistic Production</title>
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		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 24 Aug 2021 06:40:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[A CRITICAL JOURNAL ON CONTEMPORARY ART]]></category>
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					<description><![CDATA[＃006　Ta+ 旅と芸術生産 https://cj-ca.org/2021/08/08/ta-issue-006-travel-and-artistic-production/ LEAD 旅について、もっとも意味深い思索のひとつはポール・ボウルズによって書かれたものだ。彼は、『シェルタリング・スカイ』の主人公の口を借りてそれを明らかにしている。彼が語るのは、ツーリストと旅人の違いだ。前者はやがて家に帰るが、後者はそうしない。旅人はゆっくりと、何年もかけて、この惑星のある場所から別の場所に移動していく。この旅人の姿を考えると、わたしたちが旅人と呼んでいるものがどれだけそれからかけ離れているかがわかる。また同時に、「場所」がひとつの環境であることに気づけば、生涯を通して同じ場所にとどまる人間もまた、旅人だと言えるのだ。わたしたちの環境はゆっくりと変化している。わたしたちはレベッカ・ソルニットの、後代の人間がわたしたちを裁くだろう……、という警句を忘れるべきではないだろう。何によって？ わたしたちがまだ知りもしない罪によって、と彼女は言う。これは、わたしたちがまだ知らない場所に移動していくことについて述べている。彼女は、明らかに、空間的な意味でも、そして時間的な意味でも、旅について考えている。人種、性別、セクシュアリティに関して、わたしたちはそれらの多様性の重要性を認識し始めている。しかし、理解するだけでは不十分で、明日の罪を犯しているかもしれないということにも心を配らなくてはならない。わたしたちはいつも、まだ知らぬどこかに向かう途上にいる… One of the most meaningful reflections on travel can be found in the writing of Paul Bowles. He reveals it through the words of his protagonist in The Sheltering Sky. What he describes is the difference between the tourist and the traveler. The former eventually goes back home but [&#8230;]]]></description>
		
		
		
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		<title>Va+: ISSUE #005 Victory and Artistic Production</title>
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		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 23 Mar 2018 12:53:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[A CRITICAL JOURNAL ON CONTEMPORARY ART]]></category>
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					<description><![CDATA[＃005　Va+ 勝利と芸術生産 Background 2016年におこなわれたアメリカ合衆国大統領選挙やイギリスでのEU離脱を問う国民投票。ポピュリズムの台頭、あるいはリベラリズムの敗北ともいわれる状況に対して、あなたと私は「勝利（Victory）」をどのように捉え、そこから何を思い描けるだろうか。 「勝利と芸術生産」は、「勝利」を掲げることで逆説的に「敗北」を考え、「勝利-敗北」という構造そのものを問うことをテーマとしている。例えば日本での「終戦記念日」が、他の国では「解放記念日」や「対日戦勝記念日」と呼ばれ、背景となる意味も制定された日付も異なるように、「勝利（Victory）」とは、ある一面では特定の社会や思想が抱く正しさの終着点であり、別の側面では敗者を生み、その結果として弱者や貧困をはじめとするさまざまな問題を切り捨ててしまう状況にもつながる。そして、それは現在見えていないだけで、アートが抱えるリベラリズムやポリティカル・コレクトネスが持つ正しさや公平性においても同様であるかもしれない。勝利に伴う正義の対には敗者の姿があり、誰かに勝とうとすることは、負ける誰かを生み出すことにもなる。私たちはそうした矛盾を感じるからこそ、今日ではむしろ「勝利」に付随する盲目さや、自らの居心地の悪さを感覚的に避けようとしているのではないだろうか。 芸術生産を通して、私たちは「勝利」と、逆説としての「敗北」、そして「勝利-敗北」という構造そのものに対して、どのように向き合うことができるだろうか？ 当然そこには、勝つか負けるかという二択ではなく、旧来の闘争や衝突から「逃げる」という選択肢もある。あるいは社会の中で身を翻し、現実に起こる日々の苦難に奔走されることなく、自分たちの生活における「よりよく生きる」ことを、「勝利-敗北」の構造そのものから遊離した姿として定義付けることができるかもしれない。では、その遊離した姿とは、一体何であろうか？ライフハック的な営為を経ることで、果たして「勝利-敗北」の構造から逃れることができるのだろうか？既存の価値基準に自らを委ねることなく、オルタナティヴを探すことで、勝利の意味を実践として書き換えていく可能性はあるのだろうか？ 何を「勝利」として捉えるのかは、自身の価値観を問い直すことを迫るだろう。そして、その立ち位置から、勝利と敗北、両者の未来を想像することは、いまの時代の変化を考察するひとつの方法となるのではないだろうか。そのことを暫定的に信じることの試みとして今号を発刊する。 In 2016, voters headed to the polls to elect a new president in the United States, and to decide on whether to withdraw from the European Union in the United Kingdom. Amid this climate of rising populism—also described as the defeat of liberalism—what does “victory” mean to [&#8230;]]]></description>
		
		
		
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		<title>+journal @THE TOKYO ART BOOK FAIR 2017</title>
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		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Nov 2017 08:34:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[A CRITICAL JOURNAL ON CONTEMPORARY ART]]></category>
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					<description><![CDATA[会期：2017年10月5日（木）～10月8日（日） 会場：寺田倉庫 東京都品川区東品川2-6-10（地図） プレビュー・オープニングレセプション 日時：2017年10月5日（木）15:00〜21:00 入場料：1,000円 &#160; 会期：2017年10月6日（金）12:00〜20:00 2017年10月7日（土）12:00〜20:00 2017年10月8日（日）11:00〜19:00 入場料：無料 SECTION : A &#124; BOOTH : A-d-07 http://tokyoartbookfair.com/exhibitors/]]></description>
		
		
		
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		<title>Ra+: ISSUE #002 Experience and Artistic Production</title>
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		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 24 Mar 2012 01:40:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[A CRITICAL JOURNAL ON CONTEMPORARY ART]]></category>
		<category><![CDATA[Design]]></category>
		<category><![CDATA[Projects]]></category>
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					<description><![CDATA[＃002　Ra+ 経験と芸術生産 Background 戦争経験と忘却をテーマにした映画作品 《ヒロシマ・モナムール》（Hirosima monamour, 1959）の冒頭で、 映画撮影のためにヒロシマに滞在するフランス人女性が 「私はヒロシマを見たわ」と語るのに対して、 ヒロシマ在住の日本人男性は「きみはヒロシマを見ていない」と幾度も繰り返します。 物語の後半では、女性が戦争によって恋人を亡くした過去を語り、 女性も男性と同様に否定的な態度を取ります。 経験するとはどういうことなのか？ 経験していないことについて語ることはできるのか？ 沈黙するべきなのか？ 経験を語ることにどのような意味があるのか？ 経験していないことを知ることはできるのか？ 経験を語ることができない人はいないのか？ 他者は理解できるのか？ 理解できないとしても、いかに向き合うことができるのか？ このプロジェクトは、災害、戦争、事件、事故、歓喜、快楽などの 様々な「経験」について考え、芸術生産の可能性を探る試みです。 CONTENTS 飯島和樹（言語神経科学） 「経験をつくる 経験についての科学」 飯島真理子（芸術表象） 「経験を語ることについて」 石内 都（写真家） 「ひろしま」 ヴィヴィアン佐藤（美術家, 非建築家） 「マドレーヌ、Tバック、幽霊」 大島智子（アーティスト） 「かわらない」 太田敬子（オルタナティブスペース“CAVE”スタッフ） 「政治について私たちが語るとき、そこにまとわりつく「ヌル」について」 岡部あおみ（美術評論家） 「闘いの踊り フォーサイスとニジンスキー」 加治屋健司（表象文化論・美術史） 「経験を代置すること 目黒区美術館「原爆を視る 1945-1970」展の中止について」 兼松芽永（芸術の人類学/ 社会学） 「しゞまに孕む」 川勝真一（RAD ディレクター）  「「縮尺」という約束事を持った経験について」 倉茂なつ子（アーティスト）  「ひとり遊びシリーズ＃02　妄想」 齊藤哲也（芸術表象）  「愛おしさへとコンバートすること」 [&#8230;]]]></description>
		
		
		
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